💫アシユタール💫

明日の風に吹かれて…🍃

死んだら終わり……と思ったら🥀🍂

 肉体という器が朽ち果てると、やがて魂は別の器を得て、新しい生命としてまた生まれる。私は"死"という事実を、日頃からそんな風に受け止めている。器が朽ち果てると火葬され、遺骨は骨壷に収まり墓で眠りにつく。このあたりは生きている人間がやることだから、死んだ人間の管轄外だ。従って死んだ方としては当然これで終わりである。しかし、生きている人間としては、ここからが大仕事なのだ。

 私の父親は元気だった頃、キャラが強烈過ぎて、全く交流を持てない人だった。だが現在、認知症ケア専門のグループホームに居て、時々面会している。(今はコロナ禍で面会できない)彼は患って以来いつの間にか、"可愛いおじいちゃん"になり、「この人は一体誰?」と思うほどである。そんな父親もいつかは分からないが、いずれ生命を全うし眠りにつくであろう。そう、その眠りにつく場所と言えばお墓なのだが、今のところそれが無いのだ。お墓をどうするのか……? いつか必ず考えなければならない現実である。という訳で、残暑の中汗だくになりながらのお墓探しが始まった。

 ある朝何気なく、新聞のチラシに目を通してハッ!とした。私の自宅から徒歩圏内にある、完成したばかりの公園墓地の広告を見つけたのだ。「取り敢えず、此処を見てみよう!」そう思いつき見学の予約を入れた。

 そして見学当日現地へ行き、一通り見てまわり説明を聞いた。聞けば聞くほど奥が深い。私にとっては未知の世界だった。区画が狭ければ安いかと思いきや、狭い区画には縦長の墓石しか建てられない。縦長の墓石は大きな原石が必要だから、墓石が高額になり結局は意外とお高くなるのだ。そして区画が広いと、墓石は横長に作り設置できる。横長の墓石ならば原石はそれほどの大きさを必要とせず、結果墓石は縦長よりもお手頃になる。墓石がお手頃となると、区画が広くても合計すれば、それほどお高くはならない。そう言った説明を墓石屋さんから聞き、脳の使用頻度の低い部分をフル回転させる。完成したばかりで広々と見渡せる公園墓地を歩き、見本のお墓をひとつひとつ見てまわった。薔薇のレリーフが入った芸術的なもの、伝統的な○○家と彫ってあるもの。ペットの犬の眠っている墓石には、肉球と犬のシルエットが……。と言う具合にもう、何でもありの自由設計で、まるで注文住宅のようなのだ。更には墓石の種類の多さも驚愕である。黒系や灰色に何やらつぶつぶの模様が見えるそれらしいものは勿論、ピンクベージュ、レンガ色、濃紺に青色のキラキラが入ったものなど、あらゆる種類がある。勿論お値段も様々だ。もはや墓石は彫刻を施したアート作品であると、私の中では認識された。そうでもしないと、複雑且つ奥深い世界を、自分の中で位置づけ出来ないのである。

 最初に公園墓地を見学してから、骨壷をそのまま手元に置いてはいけないのか、そもそもお墓が絶対に必要なのか、そういう類の疑問について徹底的に調べてみた。そして最終的に分かったことは、「取り敢えず何の知識も無く見学したあの公園墓地が、如何に条件が揃っているか」ということだった。言い忘れていたが、初めて見てまわった見本のお墓のうちの一つを、仮予約してあったのだ。(返答期限は二週間)建売住宅と同様、現物を見て買えること、見本なので割引きがあるのが利点であった。そういった紆余曲折を経て、とうとう私は仮予約した物件!?を購入することに決めた。

 この私が父親のためにお墓を買ったのだ!

そして、あれだけ思い悩まされた彼の老後を看ている。人生に於いて何がどう転ぶのか、全くもって予想がつかないものだ。私にとっても父親にとっても、認知症を患ったこと自体は無念であった。しかし認知症になったことで彼は、"可愛いおじいちゃん"に変身を遂げた。だからこそ断っていたはずの糸を、再び結ぶことができたのだろう。これで良かったのだと、今改めて思う。

 冷たく乾いた風に吹かれながら、早朝散歩する時、ふと、父親のことが脳裏を過る。風に舞う落ち葉のように、人間の"生と死"の側面が私の意識に纏わりつく。残暑の中奔走したあの頃が、季節の移ろいの中にゆらゆらと漂っていた。

 

早朝散歩で見た朝焼け

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後に明けた空

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離れている方が近い🌈

 好きな人とは一緒にいたいもの。お互いのありふれた日々を語り合い、甘いシードルや赤ワインを飲みつつ自由な夜を過ごす。昼過ぎに起きてフレンチプレスの重たいコーヒーと、ベーグルサンドで午後を緩やに過ごす。珍しくも難しくもない二人の時間。しかし、コロナ禍ではそんなささやかな時間も、遠い夢の彼方でチカラ無く鈍い光りを浮かべるだけだ。

 先の見えない逢えない時間が、"心の奥の小さな破片"を揺らす気がするのは、私だけだろうか。叶わないことを切望していると、ロマンティックな気分になる。もしも逢えたなら、次はどんな私を見せれば彼は驚くだろうか?外見も中身も以前と全く違う私を見せて、彼の驚く顔を見てみたいと思う。何を隠そう、人の度肝を抜くのが私の趣味なのだ。悪趣味と思う方々には、軽蔑されても致し方ない。唯々ぼんやりと、逢えない時間が流れるのを眺めていても芸が無いし、つまらなくて頭痛がしてくる。逢えない時間は、ここぞとばかりオンナを磨いて、彼をギャフンと言わせてやる……。そんな悪戯なわくわく感が、湧き水の如く溢れ出る。先ほどは"ロマンティックな気分"と説明したのだが、ここへ来てもう一つ悪戯な気分を付け加えることにする。ロマンティック且つ悪戯な気分で、あれこれ思いを巡らせていると、彼のことを想う時間が次第に膨らんでゆく。想う時間が増えた分だけ、物理的には離れているけれど、心はどんどん近づいていゆく。そして互いの気持ちが、ほぼ渾然一体となるような気がする。カラダが離れているるほど、ココロは近づくのではないか。

 このコロナ禍を逆手に取り、たっぷりと時間をかけ己を磨くのはどうだろう。人間は現状に満足したらお終いだ。満足して立ち止まったら、後は経年劣化してゆくのみである。日々新しいことに興味を向け、いつまでも心の眼をキラキラ輝かせていたいものである。

理由がわかろうとも🌳

 

 ふと思い立って何処かに出かけたり、ありふれた行動をしていると、急に「ああ、アレはもうどうでもいいや」と思うことがある。ついさっきまで思い倦ねて迷った挙句やっと決めたことを、全てぶち壊したくなる。勿論、実際にぶち壊す。例えて言うなら、出来上がった途端バラバラにしたくなる、ジグソーパズルと同じ感覚だ。何故そうなるのか、自分のことながら理由は分からない。そんなぶち壊しを繰り返しつつ課題(私のやるべきこと)をやり抜くには、当然途方もない時間がかかる。

 

*計画を練る時間。

*やる気になるまでの時間。

*深く迷い考え決定するまでの時間。

*一度決めたことを全てぶち壊しゼロからやり直し完成させる時間。

 

こんなことをしていたら、240歳くらいまで生きなければ時間が足りない。(笑)

 しかし実のところ、この真逆のパターンが存在するのだ。無意識に閃いて迷い考えることもなく、瞬間的に全てが完結する。もうこれはあっという間の出来事で、まるで誰かに操られているかのようだ……。

 自分の他にも時々現れるもう一人の自分がいる、そんな感覚がある。そのもう一人の自分は、所謂「クノイチ」(忍者の女性)の如くシュッと頭上から降りてくる。すると忽ち、かなりの完成度で課題が出来上がる。もう少し頻繁に「クノイチ」のお姉さんに現れて欲しいものである。しかしながら残念なことに、呼べと叫べど来ない時は来ない。"コツコツ精進していると、ご褒美的に来てくれるのかも!?"無難にそう思っているのだが、何故現れるのか理由は分からない。

 それから頻度は低いが、右肩にいつの間にか「小さな魔法使い🧙‍♀️」が座っていることがある。因みにこちらは男の子だ。その「小さな魔法使い」が私に、ハッキリと力強い声で指示を出してくれる。魔法使いであるのは確かだか、魔法を使っているようには見えない。その指示に従うと課題が捗り、粛々と完成まで辿り着く。「小さな魔法使い🧙‍♀️」は、主に執筆中に気配無く現れ、いつの間にか去って行く。余りにも筆が走らないと、私に健康被害が及ぶことを心配して現れるのだろうか。本当のところは分からない。

 

 思えば私はいつも、「他者からは認識できない第三者」に助けられている。「もう一人の自分」そして「小さな魔法使い🧙‍♀️」、この二人が傍にいてくれて、まるで背があまり高くない樹々の茂みにに隠れて、私を見守ってくれているかのようだ。そう考えると急に心強くなってくる。

 余りにも不思議な感覚なので、何故かのか理由が知りたくて仕方がなかった。他の誰かにもそういう経験があるか否かも、気になった。一時期それについて長い時間をかけて考えていたこともある。

 それでも今は唯、そのことに感謝して何故なのかは考えないことにしている。理由が分かろうと分かるまいと、どちらでも良い気がしている。

 

 

傷ついても、傷つかない🍃

何であろうと細かいところに目が行く。そこから様々な気づきを得る。それは素敵なことであるが、同時に、傷つき、哀しみ、疲れることでもある。

様々な想像が巡り感性を刺激され、創作活動に繋がる反面、些細なことでココロが折れ、涙が溢れる。脳内情報過多により混乱し、瞬時に疲弊する。

正直言ってしんどい。とは言え、感受性が萎むのは困る。硝子と鋼の両面リバーシブル仕様のココロがあれば良いのにと思う。傷ついても傷つかない、繊細で強靭なココロが理想形。

繊細で強靭なココロでいるには、どうすれば良いのか?そうだ!「風」になれば良い。誰からも見えないし、自由に好きなところへ行ける。「風」になれば私の願いは叶うと思った。今日の風はサラサラした木綿の肌触り。私はこんな風になろうと思う🍃🍃

 

 

 

 

至福の揚げ物🍗✨🍀

とり天と、玉ねぎ天を作った。数ヶ月ぶりの揚げ物。揚げ物ができる→体調良好👌ということでとてもとても喜ばしい😊

 料理をすれば出来上がったものを、美味しく食べられるのは勿論のこと。作り始めた瞬間の嬉しさと言ったら、この上ない。始めてしまえば後はこっちのもの、必ず最後まで到達、完成する。つまりは料理を始めると、出来上がった後の安堵と歓喜と自信が渾然一体となり、その感覚がカラダ中を駆け巡る。私が私であることを証明できる気がする。大仰かも知れないが、それが素直な感情だから仕方がない。

 その大仰な感情をもたらしたのがこちら💁‍♀️

とり天💜

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玉ねぎ天💛

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見た目は自慢出来ないが

今日も味はバッチリであった🤣👌

思いもよらぬ変化☕️

疎遠だった父親が、初期の認知症だと分かったのは3年前。彼は一人暮らしだった。カラダは健康なのでケア付き賃貸マンションを探して、引っ越しをした。そして今年6月、症状が進み認知症専門のグループホームに引っ越した。確実に衰えてゆく様を見て、現実を突きつけられる。

 父親は教師をしていた。冬はスキー、夏はテニス、陸上競技、野球もする。フルートを奏で、絵を描き、書道の腕も確か。(入学式や体育祭の立看板を書く)恐ろしいほど多才な人だ。そしてキャラクターが強烈過ぎて、穏やかに付き合えるタイプではない。私にしてみれば不快な場面も多々あった。故に長年彼を遠ざけてきた。

 しかしながら、認知症になってからというもの、「可愛いおじいちゃん」になっていった。"本来こういう人間だったのだろう"そう考えると、この現実を受け入れられると思った。今の父親となら、穏やかな時を共にできる。いつの間にか、面会日が楽しみにさえ感じていた。

 しかし皮肉なことに、今はコロナ禍でzoom面会しかできない。まだ試したことは無いが、家族を忘れてしまったら!?そんな考えが頭をよぎる。今のうちにzoom面会を申し込もうと思う。

 多分このまま淡々と時は流れ、抗えない現実を運んでくることだろう…。晩年の私はどうなるのだろうか?家族とは穏やかな関係でいたいものだ。

 何はともあれ、「今」を愉しんで生きようと、改めて強く感じる今日この頃だ。

 

 

今日の心持ち☕️

三月半ばから続いた鬱期が七月半ばに躁転、ひとりで出かけられるようになった。運転もできるし、頭も回りだした。

これからは、自分の外側に安息を求めるのはやめよう。自力で何かに集中して、辛さから目を逸らさなければいつまで経っても完結しない。

明日も、明後日も、昨日や一昨日のように生真面目に暮らして、意味があるのか疑問…。だから、自分を解放して暮らしてみることに決めた。思いついたことは、片っ端から試してみる。エゴ全開で我儘放題に振る舞う。今日までいつも後回しにしてきた自分のココロを最優先にしたら、どうなるのだろう…。

 

そんなことを考えながら見上げた夕映え。

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夜散歩で出逢ったカマキリ。

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